0531

脳内OUTPUT-ただのメモ書き-

英国王のスピーチ

f:id:chirizoo:20150321181820j:plain

あらすじ

幼いころから、ずっと吃音(きつおん)に悩んできたジョージ6世コリン・ファース)。そのため内気な性格だったが、厳格な英国王ジョージ5世(マイケル・ガンボン)はそんな息子を許さず、さまざまな式典でスピーチを命じる。ジョージの妻エリザベス(ヘレナ・ボナム=カーター)は、スピーチ矯正の専門家ライオネル(ジェフリー・ラッシュ)のもとへ夫を連れていくが……。

解説・あらすじ - 英国王のスピーチ - 作品 - Yahoo!映画

ここにも注目

f:id:chirizoo:20150321182908j:plain

吃音って?

吃音とは一般的には「どもり」と言われている‘コミュニケーション障害’です。 言葉が流暢に出ず、喋りにくさを特徴とします。言いたい言葉が頭で分かっていてもなかなか出てきません。

【吃音症】どもりの原因・症状・克服について - NAVER まとめ

時代背景

吃音を引き起こした少年時代の経験

後にジョージ6世となるアルバート(通称「バーティー」)は、ジョージ5世とメアリ妃の次男として生まれた。言葉を覚えるのが遅く、左利き、X脚でもあったアルバートは、父親からこれを矯正するよう指導される。食事の際には左手に長い紐を付けられ、左手を使うと父がその紐を引っ張り上げた。またX脚の矯正用ギブスを脚に付けていた時期もあった。この頃に受けた精神的な重圧などが原因で、アルバートはいつしか強い吃音状態に陥るようになったという。

アルバートの人生に明るい兆しが見え始めたのは、スコットランドの由緒ある貴族ストラスモア伯爵家に生まれたエリザベス・バウエン=ライオンと結婚してからだ。この時点で兄のエドワードはまだ結婚しておらず、アルバートとエリザベスの若き夫婦は国民の憧れの的になった。

演説指導を助けたオーストラリア人

まだヨーク公と呼ばれていた頃のジョージ6世が抱えていた大きな悩みの一つが、人前で行う演説だった。1925年の大英博覧会の閉会式で父の代わりに演説を行ったが、吃音のためにひどい結果となってしまったのだ。そこで妻のエリザベスが見つけてきたのが、当時はまだ大英帝国の一部であったオーストラリア出身のライオネル・ローグである。  

少年時代から発声、発音の面白さに興味を引かれていたというローグは、やがて発声方法や演説の指導を仕事とするようになる。第一次大戦のトラウマに苦しみ、言葉を発することができなくなった元兵士たちに対する治療も行った。

ローグが話し方を教える治療士としてロンドンに診療所を開いたのは1926年である。この診療所を30代前半のヨーク公が訪れたとき、ローグは既に50歳近くになっていた。患者との間に親密な雰囲気を作り出し、独自の治療を進めようとするローグにヨーク公は反発し、一時は関係が悪化するほどであったと伝えられている。

しかし、シンプソンという名の既婚の米国人女性と交際を始め、英国国教会が禁ずる離婚をさせた上でこの女性と結婚することを望むようになったエドワード8世が退位という道を選んだ際に、ヨーク公ジョージ6世として即位せざるを得なくなった。演説は彼にとってますます重要となり、ジョージ6世はローグの治療に熱を入れるようになる。

国民の支持を得て

1939年の第二次大戦勃発時、ジョージ6世の国民に向けた演説は、ラジオを通して広く国民に聞かれ、国民の士気を奮い立たせた。1940年にはドイツ軍が英国に対する大規模な空爆を開始したが、ジョージ6世と妻のエリザベスはロンドンを去らずに「最後まで戦う」と宣言。国民の支持は高まった。  

戦後の国内経済の建て直しや、インド、パキスタンなどの大英帝国からの独立が相次ぐと、もともと病弱だったジョージ6世は健康を悪化させる。1951年9月、左肺を切除摘出し、一時小康状態となったが、翌年1月末、療養先のイングランド東部ノーフォークのサンドリガム御用邸で寝たきりとなった。同2月6日未明、動脈血栓により死去。56歳だった。

ジョージ6世の人生とは - 英国ニュース、求人、イベント、コラム、レストラン、イギリス生活情報誌 - 英国ニュースダイジェスト